「令和」が「万葉集」から引用されたということはメディアを介してもう周知のとおりですがこの時代は自然を愛でる豊かな精神の時代であったのだろうと想像できます。当時の人は言葉もたいへん美しかったのでしょうけれど同時に言葉以外のコミュニケーションも優れていたのではないでしょうか。よく自然を観察することで言葉以外の感覚が澄んでいくというような・・・
いま、そして今後もこの国を生きる私たちもそうありたいと思います。なぜならその方が色々楽しそうではありませんか。それに何よりも言葉というものの行き詰りを近年特に感じずにはいられません。
私は4月1日の日記で「過去・現在・未来のあらゆる人々、事柄より学び」と書きましたが過去・現在はともかく、“未来”の人々からどう学ぶのか?と一見思われそうですが、それはできるのです。
占いと言うものがそもそもそういうものなのです。
人それぞれに「一生」という「運の流れ」を持つ訳ですが自分の未来の大まかないくつかの収め方があるわけです。「このまま行くとこういう方向がありますよ」、と。例えば「同じ生年月日の人が同時に同じ結果にならないなら占いは信用できるのか?」と疑問を抱かれる時などは、実は日々私たちがものごとの「形」や「結果」という目に見える情報のみに頼り過ぎていることが原因かも知れません。
同じ生年月日でも生まれる国も、選ぶ仕事も、住む土地も、恋人も、結婚相手も、この世を去る時期も、皆それぞれ(どこかに何がしかの共通点があることは多い)ですが大本の流れはやはり同じ生年月日や相性などご縁(この場合は良い縁のこと)のある生年月日のエネルギーはこの宇宙の巡りの中で確かにつながっているようです。
私たちの意思や考え、好みや苦手意識などは実は一時的なもっと言えば瞬間的なものもあり(もちろん継続的なものもありますがそれは信念ということになるのでしょう)その多くは季節のように移ろいで行くものです。それを占いでは「運のバイオリズム」と呼びます。もちろん桜の木が去年の開花は「無かったこと」にすることがないように過去のリズムが消える訳ではありません。積み重ねながら移ろいで行く、しかしそれは目に見えないことも多いので人生は時に支離滅裂な飛び飛びのまるで「上手くできなかったコラージュ」のように感じる人もいる訳です。
それを占いはつながりやまたその意味を少しでも正確に見つけ「納得の行くコラージュ」へと繋いで行きたいのです。
私は小学生の時、人の一生には「運」という流れがあることを知り、すぐにこのように想い巡らせました。
「もしもこの本に書かれてあることが本当だとしたら私と同じこの運をより良く運ぶ人がいたとして、大人になった時その人を見て私は何を思うのだろう」と。
「あ、ちょっと真剣に自分と社会と向き合ってみるかな」「ちょっとでも、いや、できたらしっかり納得のいく一生を送りたいしなぁ」と。
それまで瞬間を全力でもがき走りまわっていた子どもがちょっと立ち止まって考えてみたのがえらく長い道のりのスタートに・・・つまり日々の運に意識を乗せてみることを始めた訳です。生きて、証明してみたかった、自分自身に。
それは宇宙の仕組みに対するワクワクするような実験的な気持ちや挑戦的な試みでもありました。が、何よりも素直に「幸せになりたかった」のだと思います。
逆を言えば自身の幼少期、運勢的にも精神的にも相当な不満があったということでしょう。ここまで拘り続けた訳ですから(苦笑)
占いの一番好きなところは人生を「逆算」できるところです。いつも勉強でも(自由読書以外学生時代の勉強はほとんどしませんでしたが)答えを知ってからその過程を知ることが好きでした。
とても“せっかち”な性分でしたので。でも成長するにつれ、過程とはただ知ることではなく一つ一つていねいに踏んでいくことなのだと思い至りました(この変化ももちろんバイオリズム通りです)。
ただ私は小心者なので正しい運の行く先をイメージしておかねば不安だったのです(笑)
占いを伝えるためには言葉を使いますがその実、占いは「言語以外のコミュニケ―ション」だと思っています。「その時が来れば感じ、気づく」といったように。
言葉はある一面の思いや事象を的確に伝えるのには向いていますがもっと複雑に入り組んだ現象を伝えるのには“もどかしさ”があります。
ですがいつかこのもどかしさが解決する未来が訪れると私は感じています。それは始めからすでに在る同じ感覚を別の形に変えるだけなのかも知れません。しかしこの宇宙は巡っているので新しいものとは常にそういうものなのでしょう。
未来の自分、また未来の多くの方々に学ぶには運の流れを知り、それにイメージがあれば可能です。良いものですよ、これは。どんな運勢も楽しめます。アイデアを駆使すれば忍耐の低迷期も好運期も同じように味わえます。ただ知るだけではもったいなく、イメージを乗せ、意識を持って進めることで、はじめて「運を使う」ことになるのです。
新元号が「令和」に決まりました。
個人的な印象は「麗しい」・・・
そして、元号については一先ず安心致しました。
2019己亥年、戊辰日の4月1日に発表され、戊戌日の5月1日に新たな日本へと幕が開かれる。「地」の気が偏るこの時代に「地」を鎮める「木」の精霊が豊かに遊ぶ「万葉集」から引用されたということに安心したのです。
そして“初めての和書からの引用”ということにも、中国をはじめ諸外国からの文化のバトンに感謝の上で日本が今後も出来得る限りの「自立」を目指して行くのだろうと感じます。
そしてもう一つ思うのは「厳しさ」。「令和」の「令」は「命令」の「令」、「いいつけ」の意があります。一体、何を?それは、「和」を。
この意味するところとは「平和」となるよう「命令」しなければならないほど国が“荒れる”時代の到来だということです。宇宙の気がここへ厳しく平和を守るよういいつけねばならないほどに。この点にはまったく安心してはいられません。私たちの地球は生きているので色々な問題が引き起こされるし、また引き起こしもします。それが生命本来の営みです。だからこそ、生きる力には“程度”が必要なのです。この自然界の木も風も、光も火も、土、金属、水も・・・皆増え過ぎて良いものはない、減り過ぎても良いものもない。だから“程度”を加減する必要があります。自然も、私たちの心や行動も。
現在の「平成」は我が国では戦争はありませんでした。その名の通りではあったのです。しかしネットや経済や人の心もやや横の繋がりが過ぎたようにも思えます。平等は良いことですが形式ではない本当の意味での先人や年長者への尊敬や謙虚さも運を開くのにとても大切な要素です。
引用和書である「万葉集」の成立は飛鳥時代とされています。その昔、南側の奈良から北側の京都へ都が縦へ動いたこのバトンにより今の日本の精神が一層形成されたのでは、という気もいたします。今一度、若者は先人や年長者を敬い、年長者は若者を慈しむ日本になればと願います。そして国土もけっして広くはないこの国の魅力と財産は本来先人より引き継がれた全国民の頭脳と精神であったはずです。宇宙から見れば私たち一人一人はまるで身体の一細胞のように小さな存在というイメージですが逆を言えば一人一人が宇宙に似ているということであります。細胞が集まってはじめて身体と言えるように。
来月いよいよ「令和」となり新しく日本が動いて行きます。
私も日々自然や過去・現在・未来のあらゆる人々、事柄より学び続け、
一細胞としてできることを着実に行って参りたいと思います。